『構造』前編「私も傷ついてきたのでしょうか?」

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はじめに

この記述はあくまでも形式的な知識であり、加害者変容には共に学び変わっていく「仲間」との相互協力、プログラム内レクチャー、ホームワークなどの「実践」が重要になります。

 

これらなくして変容に取り組むことは容易ではありませんので、主催者を含むメンバー同士の知識とケアを交換する場であるGADHAチームslack(無料)への参加、個別の質疑応答や実践的な内容を含む加害者変容プログラム(有償)への参加を強く推奨いたします。

GADHA理論入門編

これらのコンテンツは元々有償で提供していたものです。しかし、1.より多くの潜在的加害者に低いハードルでアクセスしてもらうこと、2.活動の透明性を高めて他の組織・活動と比較してから参加してもらえるようにすることを目的に、オープンアクセスにしています。

オープンアクセスにするということはGADHAの活動の持続可能性を下げるということです。そこで、マンスリーサポーター(MS)の方々を募り、応援してくださる方が増えるほどオープンアクセスコンテンツを増やすという仕組みを取り入れています。

つまり、このコンテンツはMSの方々の協力により誰でも閲覧可能になっています。心より感謝申し上げます。GADHAを応援したい方、理論を知りたい方、恩送りをしたい方などはぜひマンスリーサポーター制度をご覧ください。

 

 

連鎖の中で生み出される加害者

私たちが加害者になってしまった大部分の原因は、養育環境や社会生活の中で加害的な構造に巻き込まれてしまっていることにあります。

その加害の起源は主たる養育者(多くの場合両親)から受けた被害である場合がほとんどです。

加害者である私たち自身も、育ってきた環境の中で傷つきを覚えてきたのです。

けれどもその環境の中で、傷つきを情動調律(詳細は「言動編」に記載)や共同解釈という形でケアされることがありませんでした。

かつては無力な子供だったのにも関わらず、私たちは加害者になってしまいました。

そんな私たちにも、ケアが必要だったのです。

そのケアが欠如した環境で育ったからこそ、加害者になってしまったのです

皆さんにも、「あのときはとても傷ついたけれど、本当はこうしてほしかったな」という気持ちがあるのではないでしょうか。

その「本当はこうしてほしかった」ことの本質が、被害者の方にできるケアであり、償いなのです

 

「身につけなければならなかった」加害的な信念

そのようにかつて被害者であった私たちは何故、加害的な信念を学習し身につけてきてしまったのでしょうか?

GADHAでは、生まれた環境で生き残るためにその信念を身につける必要があったからだと考えています。

つまり皆さんはある程度の意味で、加害者にならざるを得なかった。加害者的な考え方を採用することによって生き延びてきた、というふうに考えます。

加害という言葉はほとんど解釈強要と同じですが、人は解釈強要をされると自分を守るために4つの反応をすると言われています。

1つ目は、攻撃による防御「Fight(戦闘)」

自分が傷ついたときに、暴言によって反撃し威圧的な態度で相手と戦います。

攻撃的な衝動が抑えられずに自分に向くことで自傷行為をする場合もあります。

2つ目が、その場から離れたり、別のことに没頭するなどして苦しみから逃れる「Fleet(逃避)」

現実逃避をするために、仕事・ゲーム・アルコール・たばこ・過食・性行為などへの「依存症」になることも多くあります。

3つ目が、記憶や感情を失ったり、何も感じないようにして麻痺したような状態になる「Freeze(解離)」

あまりに辛い状況におかれたときに、その場に意識を置かず、記憶に残さないことで自分を守ろうとする反応が解離です。こちらのケースでも、無意識に近い状態で自傷行為に走ることがあります。

4つ目が、相手に認めてもらえるようにおもねる、媚びる、褒めてもらうために頑張る「Fawn(忖度)」

この反応では、支配者のもとで生き延びるために、その人に喜ばれたり、褒められたりする行為(好んで解釈強要されるということ)を自ら察して選択します。これが反転すると、自分が強者になった時に、弱者に忖度を要求するという形でそのまま表れます。

親に加害的な態度を取られたときの反応として、皆さんにも心当たりがあるのではないでしょうか。

これらは全て関係性が反転した形で加害に繋がっています

皆さんの加害も4つのうちどれか複数に当てはまっていると思われます。

自分が加害的な環境で生き延びるために選択してきた4つの防御反応が、その与えられた環境における信念になっているのです。

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例えば、ある与えられた環境Xにおいて、「人に弱音を吐いても良い」と考えその通りの行動をしたところ、誰もその弱音を受け止めてくれなかったとします。

その反応としては「甘えるな」「そのくらい大したことない」「落ち込んでいる暇があったら頑張って見返しなさい」といったものがよくある例でしょう。

するとその環境で弱音を言っても良いことがありませんから、ストレスを外で暴力的な形で吐きだしたり、ぶつけたりすることによってなんとかやり過ごします。

あるいは、何かに熱中して成果を出すことで、相手を見返すことに成功するかもしれません。

そうしてやり過ごせたことで「これによって生き延びることができるのだ」と考え、いい結果が生じたと感じその信念を採用するのです。

けれどもその環境から離れ違う場所に来たときには、ストレスを破壊的な形で行動に表すと結局人を傷つけてしまうという悪い結果が生じます。

破壊的な行動をせずに、熱中してそこで成果を出したとしても、「成果を出せば認められる」と思い、逆にそのために努力していない人のことを「馬鹿にされて当然だ」と思うかもしれません。

人を見下した、加害的な信念を身に着けてしまうのです。

そのような上から目線のジャッジを含んだ人間関係は、あなたを孤独にするでしょう。

大人になって環境が変わり、子供の時に役に立っていた対処が良い方に機能しないという状況になったのです。

しかし、過去の成功体験があるが故に、その対処が機能していないという事実を認めるのはとても難しいことです。

すると私たちは「そんなことはない、これでいいはずだ」「自分が正しくて、周りが間違っているのだ」と思うのです。

本当は周りの環境が「変わった」だけなのに、周りが「間違っている」と思い込んでしまいます

そして自分の持っている信念や行動は間違っていないと考え、同じ行動を続けます。

それを続ければ続けるほど他者を傷つけ、それに傷ついたことによって他者が離れていってしまい、離れてしまったことで自分も傷つく。

この負の循環を数え切れないほど繰り返すのです。

これまでの記事の中でも何度か例に出しているかもしれませんが、離婚と再婚を何度も繰り返すような方は、結局愛するということについて学んでいないのです(そのような意味で、いわゆる「モテる」人も愛することを学んでいるとは限りません)。

今の自分の考え方や感じ方のままで生きようとすると、他者のことも自分のことも傷つけ続けるということにいつまでも気づけないのです。

それ故にいつまでも同じことを繰り返してしまいます。これはとても辛い状況だと思います。

しかし、この悪い結果を受け容れて今までとは違う行動を取りはじめてみることが重要なのです。

つまりそれは今GADHAに参加している皆さんが、様々なケアやコミュニケーションに関する理論を学びながら、「ケアの構造とはこういうものなのかな」と手探りながらも行動を変えてみている、という状態です。

そしてケア的な行動を取ればいい結果が生じ、すると信念が変わっていくのです。

変容のためには、この学習プロセスを踏むことが必須になります。

例えばGADHAでは、1度目の離婚では自分の問題に全く気づけず「相手が悪い」と思っていた方が、2回目の結婚で児童相談所や警察が呼ばれる事態に至ってとうとう自分の問題に気づいて変容を進めています。人は学び変わることができるのです。

 

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変容に取り組み始めたばかりの方は、このようなプロセスの中で信念XからYに移行して(詳細は「変容編A」「変容編B」「信念編」に記載)、悪い結果ばかりが続いていたことに気づき、自分を変えてみよう、と思い立ったという状況だと思います。

皆さんが育ってきた、一元論的な解釈強要に満ちた環境Xの世界では、自分を守り生き延びるために武器を身につけることが必要だったのです。(一元論と多元論については「幸福編A」「幸福編B」に記載)

そうして身につけてきた様々な武器を、今共に穏やかに生きるはずだった他者に振りかざしているのです。

かつては生き延びるために必要だったその武器が、大切な人を傷つけ、自他ともに不幸にし続けているという事実を、正面から目の当たりにする必要があります。

加害者の中には、生まれ育った環境に「謝る」ということがなかった人も多いでしょう。

私が生まれ育った環境でも「嵐が過ぎ去った後、なし崩し的に始まる日常」があるだけで、誰かを傷つけたとしても、誰もその責任を取ることはありませんでした。

言葉だけの謝罪があったとしても、傷つける行為をした側に罪の意識もなく、なんの反省もなしにまた同じ行為を繰り返すような人たちに囲まれて育ったのではありませんか? 

皆さんは、両親が仲直りをしているところを見たことがありますか? 

誰かが傷ついたことを無かったことにするわけでもなく、どちらか一方が支配されて従うしかない関係でもない、対等な関係を、その目で見たことはありますか?

そのような出来事があっても、なあなあに、謝りもせずなかったことにして、次の日には何事も無かったかのような日々が始まる。

そんな家庭で育った加害者はとても多いです。

傷ついた人がものすごく辛い思いをし続けていたとしても、表面上は日常が戻ってきたように見えるのですから、「何事もなかったかのように振る舞うことが平和なのだ」「そのほうが楽だ」と考えるのも無理はありません。

そのような環境で育った人は「謝る」ということができないまま大人になります

すると「人を傷つけても謝らないほうがよいのだ」という信念を身につけてしまいます。

生まれ育った環境ではそうだったかもしれませんが、今はもうそうではありません。

今目の前にあるのは、過去のやり過ごし方をそのまま再現することによって、自分のことも他者のことも傷つけてしまっているという現実なのです。

以前の環境では自分が生き延びるためにやってきていたことでも、他者に対して同じことを繰り返すことによって、それが現在進行形で自分のことも他者のことも不幸にし続けてしまっているのです。そのことを認めなければなりません。

これが加害者変容のプロセスにとって非常に重要な部分になります。

つまりそれを繰り返すことによって、この世界を加害的なものにしているのは自分なのです。

自分がそれを再現することによってこの世界を自分が思っている通りの一元論的な世界にしてしまっているのです。

それによって他者と生きる幸福や多元論的な世界を破壊しているのもまた自分自身です

ここまでの内容からなんとなく想像できると思いますが、私たちはケアや情動調律がない世界を自ら作り出してしまっています。

「どうせこの世界はこんなものだ」

「だから自分も加害する側に周るのだ」

「どうせ人は離れていくのだから」

「この世界に信じられる存在など誰もいない」

その思い込みを自分が現実にしてしまっているのです。

自分が望んでいない方向だとしても、自分がその方向に持っていくことで、結果的に自分が思い込んでいるような世界が実現するからです。

その考え方が自分が生きる世界を加害的な世界にしてしまっているのです。

過去の被害による傷は、終わらない痛みを与え続ける

皆さんの中には、次のような症状を感じている方が多くいらっしゃると思います。

シャワーを浴びるとき、寝る時などの「考えていない」時間に、嫌な思い出が鮮明に蘇ってくる。

「恥ずかしい」「怖い」「死にたい」「自分は無価値だ」「こんなものか」「やりきったのか」「もっと頑張らなきゃだめだ」「成果を出せ」など、自分を責める、強迫的な言葉が頭の中に響き続ける。

「自分が正しいはずだ」「あいつらが間違ってる」「おかしいのは社会だ」などの他者を責める言葉である場合もあるでしょう。

このようなことから何もない隙間時間が苦手で、スマホやYouTube、酒やギャンブルやタバコなど、何かで頭をいっぱいにして麻痺させないと耐えられない。

不快感情と向き合う時に、物質や行為で頭の中に余白をなくして麻痺させるタイプの対処は、前半で述べた防衛のパターンにおける「Fleet(逃避)」に近いものです。

仕事に熱中する、長時間寝続けるといったものもここに当てはまると思います。

一見考えずにぼーっとしているように見えても、正確に言うと感覚や思考を麻痺させ、「Freeze(解離)」しているような形で逃げるパターンもあります。

パートナーと話している時に「人の話を聞いてるの?」「またフリーズしてる」とよく言われるような人はこれに当たります。

これらの症状は、トラウマ(PTSD)によるフラッシュバックと呼ばれています

養育環境において受けた傷つきは、今も現在進行形の痛みとして、ずっと消えずに残っているのです。

この痛みがあるからこそ、人を加害することによって自分を守ったことにしてしまう。

私たちの被害者がそうであるように、私たちもまた、今も傷つき続けているのです。

冒頭でも述べたような、私たちが親にされたことで傷ついたこと、本当はこうしてほしかったということ、それらは全て今まさに自分が傷ついている内容なのです。

加害者の中には被害者の方に対して「どうして何回もそれを繰り返して言うのか」「何故いつまでも昔のことをグチグチ言うのか」と言う人がとても多いです。

そう言ってしまえるということは、それが現在進行形の痛みであると認識できていないのです

しっかりと謝ったわけでも、癒しきったわけでもないのですから、全くもって昔の話ではなく、今現在の話だということです。

皆さんが親から受けた被害は、全て今の話です。今苦しんでいるのです

それが認められた時に初めて、パートナーが何回も繰り返し伝えてくる被害の訴えが理解できると思います

それは現在進行形の痛みだからです。その傷が癒えるまでケアし続けることでしか、楽になっていかないものだということです。

その事実は私たちもまた、この現在進行形の痛みをケアすることなしには癒されない、楽にならないということを示しています。

「言動編A」「言動編B」などでかなり深く解説しましたが、ここで指す「ケア」とは情動調律のことです。

加害者は皆育った過程で深く傷ついているのです。傷ついたということを認めて良いのです。

傷つきを認められない人の反応として、笑い話にしてしまうというものが多く見られます。

自分の親が不倫していたことや、その現場を見てしまったことなどを、笑い話にしてしまう人は意外なほど多くいます。

そのとき自分は本当に深く傷ついて、とても強い怒りと絶望を感じたはずです。それなのに、その出来事を笑い飛ばしてしまっているのです。

そうして笑い飛ばしている限り、その傷が癒されることはないと思います。

そのように加害者は、自分の傷つきや弱さをそのままの形で人と共有したことがないのです。

頼ったり、甘えたり、弱さを見せたりすることもほとんどない。

それらを見せない相手に対して、ケアをすることはできません。その人は誰からもケアを受け取ることができなくなってしまいます。

なぜなら、ケアしてもらう時には、自分の傷つきや痛みを、率直に伝える必要があるからです。

加害者は、愚痴を聞けない

しかし、自分の抱える痛みを率直に伝える場合、相手を選ぶことはとても大切になります。

人によっては

「そんなのよくあること」

「仕事だから仕方ない、ちゃんとやらないほうがいけないでしょ」

「成果を出せばそんな問題は解決するから」

「文句があるんだったらそんな人より偉くなればいいんじゃない?」

という加害的な反応を返してくることもあります。

そんな言葉を返すような相手に相談してもケアがもらえることはありません。

しかし、そういった加害的なことを言わないであろう友人は私たちにどれだけいるのでしょうか?

そして、自分自身もそういう人になっていないでしょうか?

人の悩みや相談を聞いたときに

「そのくらいしょうがないよ」

「まあ頑張るしかないんじゃない?」

「とりあえず酒でも飲めよ」

そんな言葉を返してはいませんか?

この構造編までの内容を理解している皆さんであれば、上記のような言葉のすべては全くもってケアにも情動調律にもならないということがわかると思います。

情動調律というのは

「思い出してしまうほど苦しかったんだね」

「そういうことを言われて後から思い出すと、落ち込んでしまうよね」

「その状況ではやろうと思ったこともできなくなってしまうよね」

「嫌だったね」

「それは傷ついたよね」

と、誰かに自分の感情を認め尊重してもらうことであり、それが救いになるのです。

加害者の皆さんは愚痴を聞くのがあまり得意ではないと思いますが、愚痴を聞く力というのはそのような意味においてまさに情動調律能力だということです。

ちなみに、クラブや風俗店なども含めた水商売のように、女性とのコミュニケーションにおいて金銭が発生する場というのはそのような機能を持っています。

逆にいうと多くの男性はお金を払うことでしかケアをされないと思っているのです。

さらにそれが反転すると「俺は働いて稼いできているのだから、お前は俺をケアしろ」という理屈になります

それらのすべての背景には「自分をケアさせるための何かしらの権力がないと、ケアしてもらえない」という思想があります。その根底にはこの世界への強い不信感があるからです。

そういった意味で私は「男らしさ」的な文化も、加害的な文化とほとんど紐づいていると思っています。

加害などの依存行動は「持続不可能なセルフケア」

私たち加害者は、傷つきを癒しケアする方法を知りませんから、持続不可能な形で自分のストレスをケアします。

その「持続不可能なセルフケア」は依存症、アディクションと呼ばれるものとほとんど同じです。

依存症やアディクションは、他者と関わらずに物質に依存したり、他者を人間として扱わない形で行われる行為であることがほとんどです。

最もわかりやすいパターンは、アルコール依存です。

私はまさにアルコール依存症でした。

嫌なことがあると一人で飲み続けるのです。それを思い出すことも感じることも嫌で、誰とも話さずに漫画を読み、とにかく酒を飲んで何もかもわからない状態になって、酔っぱらったまま寝るのが人生でいちばん楽でした。

アルコールが私にとっての救いでした。

人に弱音を吐いて楽になったり救われたりしたことがないから、その方法がわからないから、弱音を吐かずに済むようにするには弱音を感じなければいい。

そうして酔っぱらっていれば、その時だけは何も感じなくても良いのです。

ニコチン中毒、たばこへの依存もそれに近いものがあります。そうなるとほとんど常にたばこを吸わずにはいられなくなってしまいます。

薬物などの物質依存も同じような状態です。

この中には合法のものもあれば、非合法のものもあると思います。

睡眠薬や風邪薬を大量に飲む人もいますし、いわゆる覚せい剤や大麻などを使うような人もいます。

自分の痛みや傷つきに向き合っていることができないから、何かに依存することで必死にそれを紛らわしているのです。

それほど傷ついてるのに、傷ついていることを自覚していない、それを認めることもできない。

それ故に人に相談することもできないですから、よりいっそう嗜癖に耽溺していくのです。

物質だけでなく、行為への依存も原因は同じです。

性的な行為への依存もそこに当てはまります。

その中には浮気や不倫などの不貞行為や、出会い系アプリを頻繁に使うこと、痴漢や盗撮なども含まれます。

セックスにはかなり強烈な刺激があるので、瞬間的に不快感情を消すことができます。するととても楽になるのです。

一見すると他者と関わる行為とも思えますが、実はまったくそうではありません。

自分が望むような行為しかしないので、全く相手を大切にしていないのです。

他者を人間として扱わず、道具としてしか見ていない形での性的な行為ということです。

盗撮や痴漢もこの典型的なケースです。

他者を傷つきうる人間だと捉えず、自分の道具として理解するようなタイプの依存。

これも非常に多いです。最近では性的依存症、セックス依存症という言葉も少しずつ広まってきていますが、そのような人たちもDV・モラハラ加害者と同様に生まれ育った環境において傷つき、それを癒す術を知らず、他者を害していると思います。

次に賭博(ギャンブル)、盗み、ゲーム、スマホ、仕事などへの構造依存も同じものです。何かに熱中することによって傷つきをごまかしているのです。

ゲームやスマホ、仕事などの合法的なものはもちろん、盗みや違法賭博に耽溺する人もいます。

GADHAメンバーの中でも、slackには共有できていなくとも非合法な薬物に手を出してしまっている人や、万引や盗撮などの犯罪をしてしまっている人もいると思います。

GADHAのslackがそのための場所ではないから言えないというだけかもしれません。

この記事を読んでくださっている皆さんの中でも、もしそういった犯罪を含むさまざま依存症から抜け出せないという方がいらっしゃるのであれば、専門の自助グループに行かれることを強くお勧めします。

自分の中の弱さと向き合うには、同じ弱さを持っている人達に対してしかさらけ出せないものがあると思います。

GADHAの中でもパートナーに物理的暴力をふるったことを告白している人が少ないので、やってしまっている人は言い辛かったりすると思います。

とても重要なことなので、GADHAとしてはそういったこともすべて共有してもらえるようなコミュニティになっていきたいと思います。

それは、自分自身というものを、弱さや醜さも含めて認めていくということがすべての始まりになるからです。

皆さんが加害者であるという自覚をもってこの記事を読んでいることもそのひとつですし、それはすごく大きな一歩だったと思います。

前置きが長くなりましたが、GADHAでは、解釈強要、加害による支配も依存の中のひとつの形だと考えます

経済的・物理的・精神的・関係的・性的暴力などあらゆる手段を用いた支配のことです。

加害者が何故他者を支配するかというと、他の内容の記事でも述べたとおり、人間は傷つきやすく弱い生き物だからです。

何故傷つくのかというと、人間は皆解釈する生き物だからです。

自分とは何者なのか、世界とは何物なのかということについて、解釈をしています。

故に他者との解釈が異なると怖いのです。

「自分は良い夫としてサプライズプレゼントを買ってきたのだから、相手は喜ぶべきだ」

「自分はお金を稼いできているのだから、相手は当然自分にケアをするべきだ」

そう思っているのに、そのとおりの現象が起きなかった時に傷つくのです。

加害者は自分が傷付いても、他者を自分と一体化させて無理やりに自分の世界を補強するような形でしか自分の世界を守れないのです。

それは共同解釈のような「他者と共に持続的な形でする」ケアとは程遠いものです。

自分の存在の不安定さを他者との協力なしには不可能な共同解釈によって解消できないから、解釈強要による支配を行うのです。

そのような点において、GADHAでは解釈強要による支配や暴力はある種の依存、アディクションであると捉えることができると考えます。

つまり加害者は、今も目の前にある傷つきを認められず、人を信じられず、不安で仕方がないのです。

それ故に、自分を守るために自分も他者も傷つけてしまう方法をとっています

そして、結果的に自他ともに孤独で不幸な状態に追い込んでしまいます

その状態はアディクションとほとんど同じです。

GADHAではこれが加害者の正体だと考えています。

私は、この問題を解決するためには自分の傷つきがあることを認めるしかないと思っています

そしてその傷つきに適切なケアを行うことも必要です。

自分ひとりでそのケアに取り組むことが難しければ、その傷つきを他者に適切に伝えてケアを依頼することもケアの一環です。

GADHAのslackに書き込むことや、プログラムに参加して自分の傷つきを振り返り、仲間と共有することもそうです。

カウンセリングに行くことや、人に愚痴をこぼしてみたり相談すること、そのすべてがケアなのです。

そして、傷つきを認めケアを依頼することができるようになったその先で、私たちは何を得て、大切な人に何を返していけるのでしょうか?

そこについては後編で詳しく解説していきます。

終わりに

皆さんが、「規範編」に始まったこの理論を読み解き、ご自身のものにしようとする、その努力に対して心からの感謝と労いを述べたいと思います。

「加害者変容プログラム」を元に構成しているこの記事も、次の「構造編 後編」で入門編の内容が完結します。

ここまでの記述を理解しようと努力をすることができる皆さんであれば、きっとこれから大切な人とケアし合う関係を築くことができるようになります。

本編の内容でも触れていますが、GADHAチームSlack、加害当事者会はメンバー同士のケアの練習の場でもあります。

この知識を得た皆さんであれば、その中で練習を積むことにより、大切な人へのケアの実践に繋げていくことが可能になると思いますので、ご参加を心よりお待ちしております。

また上記の通り、この記事の内容は「加害者変容プログラム 入門編」を元に構成しており、実際のプログラムでは実践的な内容を含むホームワークや個別の質疑応答の場もご用意していますので、そちらへの参加も強く推奨いたします。

構造編 後編」では、これまでの人生において深く傷つき加害者になってしまった私たちができる「償い」についての詳細を解説していきますので、そちらも是非併せてご覧ください。

ここまでの内容についてさらに学びたい、実践的な内容にも取り組みたいと思っていただけた方にはGADHAチームslack加害当事者会加害者変容プログラムもご用意していますので、参加希望のご連絡を心よりお待ちしております。

GADHA理論入門編

 

クレジット

本記事は「変わりたいと願う加害者」の集まりであるGADHAメンバーの協力を得て作成しています。お力添えに深く感謝します。

動画編集:匿名

文字起し:たかさし

執筆  :春野 こかげ (@d_kju2)

責任者 :えいなか (@Ei_Naka_GADHA)