『幸福編A』「人は脆弱で依存的であるがゆえに幸福になれる」

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はじめに

この記述はあくまでも形式的な知識であり、加害者変容には共に学び変わっていく「仲間」との相互協力、プログラムホームワークなどの「実践」が重要になります。

これらなくして変容に取り組むことは容易ではありませんので、主催者を含むメンバー同士の知識とケアを交換する場であるGADHAチームslack(無料)への参加、個別の質疑応答や実践的な内容を含む加害者変容プログラム(有償)への参加を強く推奨いたします。

GADHA理論入門編

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つまり、このコンテンツはMSの方々の協力により誰でも閲覧可能になっています。心より感謝申し上げます。GADHAを応援したい方、理論を知りたい方、恩送りをしたい方などはぜひマンスリーサポーター制度をご覧ください。

 

以下、加害者変容理論「幸福編(前編)」を述べていきます。

 

変容することで得られる「幸福」とは?

 

これまでの「規範編」では、「変わるといっても、具体的に何を変えたらいいのか?」という問いに、「変容編」では、「変わるといっても、具体的にどうしたらいいのか?」という問いにお答えしてきました。

 

この「幸福編」では、「大変な思いをしてまで変わることの意味は何なのか?」という問いにお答えしていきます。

 

結論からお話すると、

 

「存在の受容、人間存在の根源的な安心という幸福を与え合える」

 

という大きな意味があります。

 

こちらについて解説していきます。

「存在の受容という幸福」とは?

存在の受容、GADHAではこれを人間にとって最も重要な幸福だと考えます。

ですがそもそも「幸福とは何か?」「存在の受容とは?」ということがわからないと、このことに納得できないのは自然なことです。

 

幸福を考えるためには「そもそも人間とは何か」という問いについて考える必要があります。

 

GADHAにおいてはそれを「人間とは解釈する生き物であり、故に傷つく弱い生き物である」と考えます。

その内容をここから説明していきましょう。

解釈する生き物としての「人間」

人間は感覚や知覚を元に世界を解釈する生き物です。

 

例えば人は、何かを押した時の反発から得られる感覚を元に、それを硬い、柔らかいというように解釈します。

 

指で押した時にとても強く反発されると「硬い」と感じ、抵抗なく指が入っていけば反発が小さいので「柔らかい」と考えます。

これが解釈するということです。

 

そして、同じ対象が他者においては違った解釈をされているということがしばしばあります。

 

同じ部屋に複数の人が存在したとすると、ある人は「この部屋は暑い」と言っても、他のある人は、「この部屋は暑くない」と言ったりします。室温の感じ方も様々なのです。

 

それは何故なのか?

人間の感覚や知覚というのは人によって異なる、ユニークなものだからです。

 

その人が暑い、あるいは怖い、硬い、寒い、痛い、そう感じたとして、それには正解も間違いも存在しないのです。

 

その人がそのように感じるということは、ただ一つそのように感じるという現実しかないからです。

 

そして人間自体もまた、解釈の対象であるということがとても恐ろしいことです。

 

なぜならこの私、自分自身もまた自分と他人によって解釈可能な存在だからです。

 

人によっては自分のことを「優しい、頼もしい人間だ」と思っているかと思えば、他の人からは「怖くて、ケチで、恐ろしい人だ」と思われていることもあります。

「自分は優しい」と思っている人が「この人はいつも不機嫌で、上から目線で怒りっぽい」と言われる。それは、自分が自分だと思っている姿と、他者から見た自分とが異なるということです。

 

それは怖いことです。ものすごく恐ろしいことなのです。

この世界には確かなものが何もないということですから。これは存在の根源的な不安です。

 

解釈をする生き物だからこそ、その解釈が誰とも一致しないことというのが人間の根本的な恐怖であり、傷つきだというふうにGADHAでは考えます。

 

しかも先ほど申し上げた通り、誰もが異なる感覚を持って世界を解釈しているということは、基本的に人は自分を自分のように捉えてはくれないのです。

 

人は他者です。同じように感じることができない他者です。

他者が自分を自分のように捉えることはない。その事実ゆえに、人間は傷つく弱い生き物であるという結論が導き出されます。

 

他者から見た自分が自分の解釈と違ったり、自分のイメージする自分と現実が違ったりする時に、人はそのズレに傷つきます。

ズレに傷ついたことを「ニーズ(=一人では解消できないこと)を持つ」というふうに考えます。

自分という存在が曖昧になり、世界が不安定になることは存在の根源的な恐怖だからであり、それは一人では決して解消できないからです。

 

GADHAにおいては「人はそれぞれにユニークな感覚・知覚を持っているが故に、それを元に解釈をすると違いが生じる、その違いに傷つく弱いニーズを持った生き物、それが人間である」と考えます。

「他者のニーズをケアする」とは?

上記のように人間というものを捉えると何が起きるのでしょうか?

 

赤ちゃんを想像してみてください。

赤ちゃんが泣いている時、最初のアクションで泣き止ませられないことも多くあります。その成功率は7割ぐらいだと言われており、特に新生児の場合、それは4割を切るという研究結果もあります。

 

そもそも、お腹が減っているのか、トイレなのか、眠たくてぐずっているのかもわかりませんし、赤ちゃん自身も自分のニーズがわからなくて言葉にすることもできません。

 

わからないからこそ、泣き止むまで色々試します。

「お腹が減っているのかな、ミルクをあげようか」「泣き止まないから違った、眠たいのかな」と、いろいろなことを試してニーズを確かめながらケアをしようとするわけです。

 

わからないことを前提として、わかろうとしているのです。

 

自分のニーズが誰かに満たされる、ケアをしてもらえること以上に、ケアをしようとしてくれている人がいること、これが人間の最も根源的な「生きること」「存在すること」の安心なのです。

 

人は、自分でも自分のニーズがわからないことがあります。

言葉を使い始めた途端に、自分のニーズがわかって話しているような気がするのですが、実際はそうでもありません。

 

何故悲しんでいるのか、何故傷ついているのか、何故怒っているのか。人は皆、自分でもそれがよくわからないのです。

 

これを読んでいる皆さんの中には、思春期の年頃のお子さんを持つ方もいらっしゃるでしょうか。

その中には、赤ちゃんの時の子供は可愛いと感じていたけれど、思春期になって話し方がわからなくなり、口を利くことすらしていないという方もいるでしょう。

 

それはつまり、わからないからわかろうとするという態度を棄てたということなのです。

棄ててしまったが故にわからなくなったのです。

 

それが何を意味しているか理解できるでしょうか。

 

わかろうとする態度を棄てた結果、お子さんにケアを与えることができない人間になったということです。

 

解釈する生き物である以上、人間の幸福は、この私を他の誰かがわかろうとしてくれることに他なりません。

わからなさを前提とした上で、わかろうとしてくれる存在無しに幸福はないということです。

 

その個別性、人間性をわかろうとせずに「妻はこういう人間だ」「どうせこういうことを考えるのだろう」と決めつけ、わかった気になってしまうことが加害の背景にあるのです。

 

「女だから」「妻だから」「母親なのだから」と、役割によって相手を規定し、個人を見ないこともその典型です。

 

愛することというのは、相手がその解釈のズレを見て傷ついた時に、その傷つきを認め、それをニーズと捉えてケアしようとすることです。

 

けれども解釈が違うと、相手のニーズを間違えることも、読み間違えることもあります。

「これがケアになるかな」とやったことが間違えていることもあるわけです。

 

「良かれと思ってやったのに」というのはケアの方法を間違えたということです。

あるいはニーズを読み間違えたのですね。

 

そしてその時に「良かれと思ってやったのだから許せ」というのは加害です。愛とは真逆の構造です。

 

愛とは、その時に自分が「良かれと思って」したことかどうかに関わらず、相手がそれによって傷ついたり、ズレていると感じた時、そのズレや傷つきを認め、学び直そうとすることです。

 

相手のニーズを知ろうとし、相手がどういうケアのされ方を望んでいるのかを知ろうとすること、これが愛するということです。非常に具体的な行動です。

 

いわゆる、愛情みたいなものとは全く別です。

人は愛情があっても人を傷つけます。愛情があっても愛せない事は非常によくあります。

愛することは能力で、そのための行動だからです。

「愛し合う」とは何か?

愛するための能力をもち、そのための行動をとることがお互いにできると何が起こるのでしょうか?

 

そこでは、お互いの、お互いの感覚に基づく解釈を受け容れあったくつろげる関係を築ける、という現象が起こります。

 

時に間違えることがあったとしても、「こういったことで傷ついてしまったのだね、申し訳ない。次からそれとは違うようにしようと思うのだけれどそれはどうかな?」と言うことを話し「そうしてくれたら嬉しい」と返ってきたら次はそうする。

 

それが読み間違えていて「そうではなくてもう少し違うことをしてほしい」と言われた時に、その内容を相手に説明させようとせず、相手のそのニーズをわかろうと、そのニーズに近づいていこうとすること、相手の世界に寄り添おうとすること。

 

それはGADHAの言葉で言うと「共同解釈をする」「 情動調律をする」ということの具体例です(詳細は「言動編」にて記します)。

 

それができると何が起きるかというと、自分の感じ方や考え方を攻撃される心配がなくなるのです。

 

この人と一緒にいれば、自分らしくいられる。

「自分の感じ方や考え方をこの人は受け容れてくれる」と思える。

 

それはあなたとわたしの解釈が一致して「この私たち」になるということです。「私たちの世界」を構築できるのです。

 

そうすると、先ほどとは真逆に、この世界における自分の存在が安定します。

 

私が思う「私」の解釈と、あなたが思う「私」の解釈が一致し、その逆もまた然りとなった時、この二人が一緒に生きている限り、世界が安定するのです。

 

お互いに生きることが怖くない、この世界に生きていることの安心が得られる、ということです。

もちろん、ずっと常に一致するということではありません。あくまで他人である2人がどんなときも一致する(静的な安心:現実にはありえない)ということはありません。大事なのは「私たちは、解釈のズレが生じた時に、わかりあおうとするよね」という(動的な)安心があることなのです。

 

GADHAにおける人間観は、人それぞれユニークな感覚・知覚を元に解釈するからこそ傷つく、弱い、つまり「ニーズを持った」生き物です。

 

そして、だからこそお互いにユニークな感覚・知覚を受け容れケアすることを通し、私たちの世界についての解釈の中で安心を与え合える関係になることが「幸福」だと考えます。

 

これがGADHAの考える人間観と幸福観です。

終わりに

「規範編」「変容編」、「幸福編」前編と、あなたがここまでたどり着くためにかなりの労力と時間を割いてくださったことへの心からの感謝をこめて、この「終わりに」を綴ります。

 

ここまでの知識を獲得しようとするあなたは、今どんな気持ちでいるのでしょうか。

 

「変わりたい」「必ず変わる」そのような熱意もあるかもしれません。

 

けれどもその一方で「本当に変われるのだろうか」という不安、疑いも抱くかと思います。

 

GADHAには、一歩ずつ、けれども確実に変容の歩みを進める仲間がいます。

 

その仲間と変容の苦しみも喜びも分かち合うことができるコミュニティであるGADHAslack、実践的な内容に取り組むことによりさらに変容を実感できる加害者変容プログラムへのご参加を心よりお待ちしております。

 

変容し続ける仲間の姿を目の前に、あなたが不安や疑いの中に微かな希望を見いだせることを願います。

さて、続いて幸福編後半に向かいましょう。

GADHA理論入門編

 

クレジット

本記事は「変わりたいと願う加害者」の集まりであるGADHAメンバーの協力を得て作成しています。お力添えに深く感謝します。

動画編集:匿名

文字起し:トンボ(@10_n_bo)

執筆  :春野 こかげ (@d_kju2)

責任者 :えいなか (@Ei_Naka_GADHA)