自省録:クソバイスの作り方 力になりたいという「自分のニーズ」を満たすな

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こんにちは、GADHA立ち上げ人のえいなか(@EiNaka_GADHA)です。

自省録シリーズは、連載コラムの1つです。立ち上げ人というと、まるで「悪意のない加害者」を卒業していて、悟ったかのようですがそんなことはありません。

僕自身、日々間違いを犯しています。しかし、それが間違いであると認め、次からどうすればいいのかを反省できるようになったのは事実です。

自省録シリーズでは、妻との暮らしの中での誤りを取り上げ、それをどのように考えたのかを記していきます。

その他、お悩み相談や「あるある」などのコラムのバックナンバーはこちらからご覧ください。

起きた事象

まずは、今回してしまった過ちについて、時系列にそって状況を説明します。

1.まず、妻が仕事の関係で、悩んでいることを共有してくれました。どの選択肢を選ぶべきかで悩んでいるというよりは、しなければならないが辛いことを共有してくれました。

2.僕は、それに対して「XXすれば良いのではないか」「XX以外選択肢はないのだから、そうすべきではないか」ということを伝えました。

3.妻はウーーンとあまり納得感なく、あいまいな返事をしました。

4.僕はそれに対してだんだんイライラしてきてしまい「何がしたいの?」「僕にどうして欲しいの?」と問いかけ始めました。

5.妻はいっそう困ったような表情を浮かべ、話を終わらせようとしてきました。

6.僕は自分の言葉が徐々にトゲトゲしくなっていること、悩みを共有してくれているはずが、いつの間にか僕が相手を責めている状況になっていることに気づきました。

7.僕はコミュニケーションが「自分のニーズ」を満たすためになっていないかを考え、そうであることを自己認識しました。

8.妻にそれを伝えそれを謝罪し、「妻のニーズ」に応えるにはどうすれば良いかに考えを切り替えました。

9.詳細は割愛しますが、いくつかそのアプローチを提案したのち、妻も気づいていなかったニーズが見え、それを満たす行動を自分が取れることがわかり、それを約束しました。

10.会話の途中で生まれたあの違和感、緊張した雰囲気、落ち着かない感じが解消され、くつろいだ関係に戻ることができました。

反省と学び

今回の反省と学びは大きく2種類あります。

1つは、人と話している時にいつの間にか「自分のニーズ」を満たすために行動していることがあることです。

もう1つは、相手も「自分のニーズ」がわからないで話していることがあり、それを一緒に見つけ出す支援はできるということです。

それぞれ説明していきます。

1.いつの間にか自分のニーズを満たしていないか

今回、僕は妻の煮え切らない返事にイライラしました。

相手の相談に乗り、相手がそれを解消できないとき、それは自分の働きかけが不十分だということです。自分の未熟さを恥じるならまだしも、一体なぜイライラしたのでしょうか。

それは「おれの言葉で解決したい」「力になった感、頼りになる感を感じて欲しい」「もやもやしている状態がスッキリしないから嫌だ」「感謝して欲しい」という自分のニーズに無自覚な上で、それが満たされなかったからです。

妻の悩みを聞いているのではなく、自分のことだけを考え、自分の力の誇示を目的としてコミュニケーションしていたのです。

妻からすれば「アドバイスに従わないとイライラするような人とはもう話したくない」「自分の苦しいことや悲しいことはこの人とはシェアできない」と感じるのは必然でしょう。

往々にして、緊張があって、なんだか変な感じになるあの雰囲気の背景には、相手のニーズを無視して、自分のニーズを押し通そうとする愚かさ、加害性があるかもしれません。

今後、同じようなシチュエーションでは、そのコミュニケーションは誰のニーズを満たすためのものなのかを考え、そして常に「相手のニーズ」を優先する姿勢を持ちたいと考えました。

2.自分のニーズがわからないのは相手も同じ

しかしながら、自分のニーズがわからないのは加害者だけではありません。パートナーも、自分のニーズがわからないまま、むしろわからないからこそ悩み困ることは多々あります。

今回の事例でも、妻はどうしたいのか、僕にどうして欲しいのか、何か明確なニーズを自覚できているわけではありませんでした。

だからこそ、僕が「結局どうしたいの?」「僕に何をして欲しいの?」と問われても、答えられないし、攻撃されたように感じたと思います。

こんなとき、妻を愛し大切に配慮したい人間として何ができるでしょうか。それは「妻のニーズ」を、妻と共に考えていくことに他なりません。

赤ちゃんのケアに置き換えて考えてみれば当たり前です。決して妻を下に見るという意味ではなく、ケアをするということの本質が育児と深い繋がりがあるために例示します。

赤ちゃんがぐずり、なかなか泣き止まない時僕たちはどうするでしょうか。それは、いろんな方法を試して反応を見て、満足するまでそれを繰り返すことです。

お腹が空いているのかもしれないと考えビスケットを口にあてがい、喉が乾いているかもと思えば麦茶のストローを吸わせ、おしっこをしてないかとオムツを確認し…と試行錯誤します。

それらの試行錯誤の結果、あかちゃんがご機嫌になれば、それはニーズを満たせたということです。

それと同じように、妻のニーズが見えないときは「こうかな、こうかな」と提案し、妻に確認するのです。

「大人なんだから、自分が求めていることくらい自分で言語化しないと」

と思う人もいるかもしれません。

しかし、つい先ほど僕自身が自分のニーズに気づかずに話していたことを考えてみてください。

想像しているよりも、非常に多くの人が、自分のニーズを自分で自覚して、それを満たすことができません。

ケアとは、他者のニーズを満たすことです。愛することとは、大切な人のニーズを満たすことです。

ですから、妻が「自分のニーズ」がわからない時には、それを一緒に見つけ出せるように支援することが、愛しケアする行為です。

「だから、君の悩みはXXだよ」とか「自分で気づいてないみたいだけど本当はYYしたいんでしょ?」と押し付けたり、決めつけたりすることは加害的です。

「もう考えてるかもしれないけど、もしかしてXXとかってことはないかな?」

「もしもYYが必要だったら、僕ができるけど、どう?」

というふうに、相手に意思決定の権限を手渡し、自分ができるのは確認や提案までだと肝に銘じましょう。

また、ここでも気をつけなければならないことがあります。それは「ニーズを満たすまで延々と質問を続ける」可能性です。

「延々と」という言葉の意味はなんでしょうか。それは「相手が、ひとまず今はもう自分のニーズはわからなそうだし、この話をするのに疲れた」と言っているのにやめないということです。

これもまた、相手のニーズを無視して、相手のニーズを満たさないといけないという「自分のニーズ」の罠に絡め取られてしまっています。

「もう話したくない」「疲れたから一旦やめにしよう」「ちょっと自分で考えたいから放っておいて」と言われれば、それを相手のニーズと考えてすぐにニーズを明らかにしようとすることをやめる。

当たり前のことのようですが、これは非常に大事なことです。相手を尊重するというのは、相手の悩みを解消することそのものではないということです。

相手が望むことをし、相手が望まないことをしないことです。

それは、単に話をやめるにとどまりません。やめたとしても、あなたがモヤモヤしている顔を続ければ相手は罪悪感を覚えるでしょう。

相手が「話をやめたい」というニーズに応えるということは、話をやめるだけではなく、話をやめたいといったことを(言葉でも、振る舞いでも)責めたり残念がったり、モヤモヤしたり怒ったりしないことを指します。

別の話を持ち出したり、飲み物を出したり、愛していることを伝え、ニーズを見つけられなかった自分の未熟さを謝り、ハグをしてその会話を終わりにすると良いでしょう。

「相手にとって良いことを、相手より自分の方がわかっている」という思い込みが、「相手の力になりたい」というニーズを無意識に産み、それが上から目線のクソバイスを生み出します。

それに気づくことは、「ああ、もうこいつには二度と相談しない」と思われないためのとても大事なことです。

おわりに:相談してもらえる幸せ

最後に、そもそもなぜ「もう相談したくないと思われないこと」が重要なのかを整理して終了します。

人の幸福とは、「この私」の解釈を共有してもらえることです。それは、自分が自分のままで攻撃されたり、非難されたり、責められたりするかもしれないという不安がない状態です。

「ありのままの自分」を大切にされているという感覚を持てている状態です。

これは、原理的に一人では達成不可能です。他者に自分を共有されていないといけないから、つまり、人は幸せになるために他者を必要とするからです。

それでは、どんな人が「この私」を共有してくれるでしょうか。それは、自分がその人の「この私」を共有している人です。

私が相手を傷つけないからこそ、相手も私を傷つけないようにしようと思えるのです。

相互に、気遣い、配慮し、相手が生きやすいようにあってほしいと願い、ケアすることで「この私」を相互に共有し、不安や恐れのない幸福な関係が成立します。

「もう相談したくないと思われないこと」が重要な理由は、ここで明らかです。

人が相談するのは、悲しみや苦しみ、葛藤などを抱えていて、自分一人ではうまく処理できない時です。

その悲しみや苦しみ、葛藤をシェアしてもらえないとき、私たちはどうやって、相手の「この私」を共有することができるでしょうか。決してできません。

相手のいいところ、元気なところだけをシェアしてもらう関係になったとき、私たちは相手を真に愛することが決してできないのです。

「この私」は現に傷つき、悲しみ、葛藤しているからです。それらを感じない人間などいません。いると思うのなら、それは、あなたが、それを共有してもらえていないだけです。

ですから、大切なパートナーが自分に相談したり、愚痴をこぼしたりしてくれることは、愛しあう関係にとってとても大切な条件なのです。

僕の今回の働きかけは、自分のニーズを満たそうとする行為であり、妻からすれば「私のニーズを無視された、もう話したくないな…悲しみや苦しみをわかってくれない人だな」と思われる行為でした。

それが続けば、いずれ相談もしてくれなくなるでしょう。そうすれば、彼女のニーズを満たす機会は失われ、愛することもできなくなるでしょう

1.自分のニーズを満たそうとしていないか

2.相手のニーズが見つかるよう支援しているか

僕を含む多くの加害者のみなさんは、ぜひ気をつけてみてください。

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終わりに

G.A.D.H.A(Gathering Against Doing Harm Again:ガドハ)は、大切にしたいはずのパートナーや仲間を傷つけたり、苦しめたりしてしまう「悪意のない加害者」が、人との関わりを学習するためのコミュニティサービスです。

当事者コミュニティとイベントの運営加害者変容理論の発信トレーニングなどを行い、大切な人のために変わりたいと願う「悪意のない加害者」に変容のきっかけを提供し、ケアのある社会の実現を目的としています。

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