はじめに
この記述はあくまでも形式的な知識であり、加害者変容には共に学び変わっていく「仲間」との相互協力、プログラム内ホームワークなどの「実践」が重要になります。
これらなくして変容に取り組むことは容易ではありませんので、主催者を含むメンバー同士の知識とケアを交換する場であるGADHAチームslack(無料)への参加、個別の質疑応答や実践的な内容を含む加害者変容プログラム(有償)への参加を強く推奨いたします。
GADHA理論入門編
これらのコンテンツは元々有償で提供していたものです。しかし、1.より多くの潜在的加害者に低いハードルでアクセスしてもらうこと、2.活動の透明性を高めて他の組織・活動と比較してから参加してもらえるようにすることを目的に、オープンアクセスにしています。
オープンアクセスにするということはGADHAの活動の持続可能性を下げるということです。そこで、マンスリーサポーター(MS)の方々を募り、応援してくださる方が増えるほどオープンアクセスコンテンツを増やすという仕組みを取り入れています。
つまり、このコンテンツはMSの方々の協力により誰でも閲覧可能になっています。心より感謝申し上げます。GADHAを応援したい方、理論を知りたい方、恩送りをしたい方などはぜひマンスリーサポーター制度をご覧ください。
「言動編(前編)」では、物理的な暴力はなくとも加害になるということを学ぶことができたかと思いますので、後編ではさらに深く、その加害をしてしまう理由、加害をケアに変えるために何をしたらいいのか?それらを学んでいきましょう。
自分にも情動調律ができない「加害者」
前編を読んでいただいたことで、情動調律の重要性は理解していただけたかと思います。
何故加害者はこれができないのかというと、情動調律をした、された経験が決定的に乏しいからなのです(これについては「信念編」「構造編」にて詳細を記述します)。
実は加害者はそれ故に、自分にも情動調律ができていません。
つまり、自分にも加害をしています。
加害者も人間ですから、同じように傷付きます。
「自分はこれをいいと思ってしたのに、相手が全く喜んでくれない」「自分はこれでとても傷付いたのに、相手は全然なんとも思ってない」
そういった、他者との解釈にズレが生じた時に傷つくのです。けれども加害者は、それによるニーズや傷つき、弱さを認め認識することができません。
そこには様々な理由があります。
男らしくない、大人気ない、それは強くないと思うことや、それは一般にやってはいけない、恥ずかしいことだと思うこと。
あるいは長年生きてきた中で、自分の感情や傷つきや弱さに接続しないようにしてきた場合、接続し感知する能力自体に欠けるので、傷ついたことを認めることすらできないこともあります。
そこで何が起きるかというと、ケアをしてもらうために依頼することができないということです。
傷付きを認められないから、ケアの依頼もできません。
そうすると、怒りによって命令することで支配によるケアの要求をしてしまうのです。あるいは無言による脅迫など、ケアの依頼にならない表現をします。
そして依頼にならないので、感謝もしないのです。
依頼をしない故に、相手からしてくれたケアについて「少しは感謝してほしい」「あなたのために色々考えて行動しているんだよ」と言われた時に、まるで貸しがあるように感じ、その貸しがあることを認めない、認めたくないがために「頼んだわけじゃない」「勝手にやったんだろう」という加害をさらに重ねる人もいます。
これは本当に罪深く、人のケアを搾取する行為です。
これを受けた被害者は、あなたをケアする意思やエネルギーを著しく失います。
もしもあなたが相手が最近冷たくなったと思っているとしたら、その原因はあなたである可能性が高いです。
依頼もしないのにケアを要求し、ケアをさせておきながら感謝しない。
この状態を、一時期流行った言葉が正確に説明しています。それは「忖度」です。
自分の弱さも認めず、依頼もせず、感謝もしない。
非常にずるく、失礼で、関係を破壊する態度です。
弱さや痛みを認知し、ケアを依頼し、してもらったことに感謝をする。
これなくして相互にケアの交換はできません。これができないと愛が枯渇し、孤独に死ぬことになります。
加害者は関わる人だけでなく、自分自身も不幸にしています。
自分のニーズを認め、適切に依頼し、ケアをしてもらうことができないからです。
ケアや愛のエネルギーが枯渇するような関わりしかできないのですから、そのような関係にはいずれ必ず終わりがきます。それは当然のことなのです。
それは自分だけがケアされ、相手はケアされないということです。
相手は永遠に感じるほど長い間存在を否定され続け、自分という存在を生贄にし、全てを捧げてケアしたにも関わらず、感謝をされることすらありません。それでもケアをし続けるということなのです。
それは死ぬほどの苦しみですから、必ず関係は終わります。
適切な甘え方、適切な頼り方、適切な相談、適切な弱音の共有。
これらをする能力がないと、自分という存在を加害してしまうのです。皆さんも心当たりがあるのではないかと思います。
私自身もどんなに偉そうにこれを書いていても、その能力はまだ低いです。いまだにたくさんの失敗をします。
人は一人で自分を支えることができません。
冒頭でも述べましたが、人間は、自分が支えようとする誰かに支えられることなしに、自分という解釈を維持できない生き物です。
自分という解釈は、とても曖昧です。
自分が自分だと思っている存在、現象を、他者からも自分だという風に受け止めてもらえることなしには、自分がこの世界に生きていることができないほどの不安を感じるのです。
それは存在の不安、世界の不安定です。
その事実を認めるということは、人は弱く誰もが他者に依存していることを認めることです。
それを認めて依頼し感謝し合うことを前提とすることでしか始められないのです。
これがケアの哲学が述べる、そして同時にGADHAが選択する人間観です。
この人間観の逆を採用するのが、成長教、努力教のような価値観や、ネオリベラリズム(新自由主義)、自立とは何者にも依存しないこと、という立場です。
皆さんの多くがそのような立場にいると思います。
「自分はひとりでこんなに頑張っているんだ」と思う方も多いのではないですか?
けれどもそこまで頑張れていたのは、本当に自分ひとりの力によるものだったのでしょうか?
今実際にパートナーやお子さんが自分のそばからいなくなってしまった方もいらっしゃると思います。
ひとりで頑張ってきたのなら、本当にひとりになった今、こんなにもひどく不安定に、ボロボロになってしまうのは何故なのでしょうか?
子供やパートナーが目の前からいなくなって、働く意味を見失った、仕事をやる気力がない、なんのために生きているかわからない、といったことを言う人がいます。
ということは、あなたは「与えられていた」のです。
あなたが偉く、強く、お金を稼いでくる「与える側の人間」だと思っていたのかもしれませんが、違うのです。
与えることで与えられるもの、受け取っているものがあるのです。
だからパートナーやお子さんを失うと生きがいを失うのです。
人は誰かのために頑張ることができるのだとしたら、その人のために頑張りたいと思える誰かはその存在自体がものすごく大事なのです。
加害者は、「もうすでに受け取っているもの」の認識ができない人です。
それは自分の弱さを認められないことと明らかに連続しています。
自分の弱さを認めたときに、本当は自分も支えられ、既にたくさんのものを与えられ、常に助けられていたから頑張れていたのかもしれないという事実に気付けるのです。
それを理解した時に、成長する、発達するということがいかに助け合いや支え合いの中でできていたことであったか、自分がどれほど人に依存しながら生きていたのか、そういった実感が湧くのではないでしょうか。
ですが、多くの教育はそうではありません。
人に迷惑をかけない、恥ずかしいことをしない、自分一人で様々なことを完結できたほうが良い、と教えます。
そういった考えに染まっていけばいくほど、加害の信念体系に浸かっていくのです。
そこからいかに、人は誰もが弱く、助け合い支え合うことで生きていけるか、いかに自分の弱さを認め、相談や依頼をし、感謝することで成り立つ世界があることを認めることで、ケアの信念体系に近づいていくのです。
「幸福編」でも述べましたが、GADHAにおける人間観というのは「人はそれぞれユニークな感覚や知覚を持っており、それを基に解釈するが故に人と違うことがある。そうした違いを目の前にした時に傷つく、弱い、ニーズを持った生き物である」というものです。
ですのでGADHAにおける幸福観は「お互いのユニークな感覚や知覚を受容し、ケアすることで私達の世界、私達の解釈というものを作っていく。それを作り上げる中で、安心を与えあえる関係を持つこと」を幸福と考えます。
これは必ずしもパートナーが相手ではないとできないわけではありません。
友人とそういった関係を築くこともできますし、職場の同僚とそれをすることも可能です。
この人間観から始められないことには、自分の弱さやニーズを受け入れられないので、依存的な行動によって麻痺させてしまうのです。
自分が傷ついたときに、その傷つきを認められない代わりに物質や嗜癖によって紛らわすのが依存症です。
お酒を飲んで麻痺させるアルコール依存、あるいはタバコ、ギャンブル、万引きなどの盗癖、性行為への依存。
この中には強迫的な自慰行為、出会い系への依存による不特定多数の相手との接触、痴漢や盗撮などの性犯罪への依存も含みます。
または乖離に走って自傷行為をすることで、ケアすることをせず、ケアを依頼することもできず、その傷つきを麻痺させてしまうこともあります。
これらへの依存は全て、精神的な傷つきからの逃避行動と考えられます。
あるいは、怒りという形で傷つきを相手にぶつけるパターンもあります。
相手が自分の思い描いた行動をとってくれないことで、その解釈のズレに加害者は傷つき、けれどもその傷つきを適切に認識し表現することができないために、「何故自分の思ったとおりにしないのだ」「こうしないことは間違っている」という形で相手を責めます。
あるいはそういった場面でフリーズし相手を遮断して、対話を放棄するという現れかたもあります。
動揺するが故に相手に合わせすぎて自分を見失ってしまうという形に出ることもあるでしょう。この形は被害者の方に現れる場合が多いです。
被害者の方にも自分の傷つきを認め、相手に伝えることが苦手な傾向がありますが、自分の弱さを受け入れ、人とケアし合うということができないと、加害者も同じくこういった逃避行動に出ます。
繰り返しになりますが、加害などの逃避に走るのは何故かというと、生まれ育ってきた環境で、こうして生きていくしかなかったからなのです。
加害者には返さなければならない「負債」がある
加害をしなければ生きていくことが出来なかった私たちは、ここから何をすればよいのでしょうか?
加害をし続けていたことで、私たちは被害者に対して莫大な負債を抱えている状態です。
その負債を返していくためには「自他ともに持続的な形で相互にケアできる関係」になることを目指していかなければなりませんが、この能力の獲得を被害者の方と実践するのは極めて難しいことです。
現にパートナーと関わることができない状態にある方もいらっしゃると思います。
愛し合う関係というのは、言いなりではなく対等な関係です。それは間違いありません。
ただ、加害者の自覚を持った人間には、間違いなく覚悟が必要です。
「変容編」でも天秤の例を挙げましたが、自分が破壊し続けてきた共同解釈をするために必要な信頼を、今から取り戻していく必要があるのです。
相手からすれば、何故あなたとやらなくてはならないのかと思うことでしょう。
別の人とゼロから共同解釈を始めたほうがよほど楽な状態なのですから。
変容し始めた最初の時期は、自分が引くこと、許すこと、手放すことばかりだと思います。
そして手放せば手放すほど相手は、「少し変わってきたかもしれない」と感じ、「では昔のあのことやこのことも、言ってもいいのかもしれない」「是非言いたい、ちゃんと伝えて謝ってほしい」と思うのです。
すると、相手は今まで言えなかったことが言えるようになります。積み重なって我慢していた被害が滝のように出てくるのです。
加害者にとってこの状態はとても辛いものです。
変わり始めて、自分でも少し変わってきたかもしれないと思った時にこそ、相当な勢いで責められるのですから。
けれどもそれを事前にわかっていれば、その覚悟はできます。
そしてもちろん、加害者が変わったのかどうか、この点においての解釈を強要することはできません。
「努力して変わってきたのに何故わかってくれないのだ」と言ってしまう人は多いのですが、そう言っているようでは結局何も変わっていないのです。
相手に解釈強要ができない、それは加害なのだということを、理解することができていない。自分のした加害の重さも罪もわかっていません。
自分と生きていくために、変わろうとしてくれる人がいる。
この人は私の解釈を受けとって、自分の解釈を変えようとしてくれている。
それを感じるからこそ相手も少しずつ接し方を変えようと思ってくれるのです。
天秤がものすごく偏っている状態なのに、自分も変わるからあなたも変わってくれなどと、簡単に言えることではないのです。
小さなことから共同解釈を繰り返し積み重ね、変わり合い、赦し合っていく。
互いに相手の行為に報いようとする、その信頼があるからこそ人は変わろうと思うこと、赦すことができるのです。
もしも、どちらかだけがこれを諦め続けたら、自分だけが相手のために変わり続けることを求められたらどうなるのでしょうか?
これはつまり、私たち加害者が、相手に対して長い間してきたことなのです。
それが関係の終わりです。
相手のために変わりたいとも思わない、相手が自分のために変わってくれることも到底信じられない、そういった諦めを持つことです。
その諦めというシャッターが降りた時、互いの関係は終わります。
できることは、言動を変えていくこと、ただそれだけです。
それを続けると関係に変化が生まれる時がきます。
その時に人は、言動の背景にある信念を信頼して、本当の意味で変容します。
言動から変えましょう。
変えてもすぐに反応がもらえるわけではありません。
とても苦しい、誰にもゴールを教えてもらえないマラソンのようなものです。
加害者変容は、地獄のように苦しいと思います。
どれほど苦しくとも、被害者にそれを訴えることは容易に加害になり得ます。
その理由から、パートナーにその苦しみをケアしてもらうことはできません。
けれどもGADHAの中であれば、それを吐き出しても良いのです。
その苦しみをケアするためにGADHAがあるのだということを、忘れないで下さい。
GADHAの当事者会やプログラムはそのためにあります。自分のニーズや変われない苦しみを、共有し弱音を吐く能力、相談する能力を発達させていく。
同時に他者の苦しみや悲しみ、人のニーズに触れ、それをケアする能力も発達させることができます。
加害者同士、その苦しみを共有しあえる者同士が「言葉を選んで」ケアすることを覚える場なのです。
私たちはそれを通して、ケアのエネルギーを交換することができます。
GADHAでケアのエネルギーを獲得し、それをパートナーとの関係に持ち込む。
最初は下手で、うまくできないと思います。ぎこちなくて、ケアをしても返ってこないかもしれません。
連絡を取ることすらできなくても、それをしないこと自体がケアである場合すらあります。
ですからここで何回も取り組み、ぎこちないケアと、ぎこちないニーズのシェアをしましょう。
この能力は、必ず発達させることができます。そのための学習の環境が、このGADHAというコミュニティだということです。
私も含めた仲間と一緒に、愛し合う、ケアし合う関係を構築できる人になっていきましょう。
すべては情動調律です。
相手が何を大切にしていて、何に傷つくのか、それをどう大切にしたらいいのかを考える。
そして自分に対しても、自分が何を大切にしていて、何に傷つくのか、どう大切にしてほしいのかを考える。
これを加害ではない形で適切に共有できた時には、ほとんどの喧嘩というのは存在しなくなります。
なぜならそこには、傷つきあっているけれども、それでもケアし合いたいと思い合う二人がいるだけだからです。
そこには、どちらが「正しい」どちらが「間違っている」というような「争い」が存在しないのです。
ケアし合いたい、そして相手が傷ついているということを認めあえる、そのような二人がいる。ただそれだけです。
それは争いとは全く違うものです。
「負債」を返した先にある関係、その先にある幸福とは
プログラムのゴールを改めて述べます。
「自他ともに、持続的に、ケアできる関係を構築できる人になる」こと。
少しずつこのゴールの意味がわかってきたのではないでしょうか。
自分の中に、他者の中に生じているニーズに気付き、認め、言語化すること。相手の言語化をも支援すること。
言語化されたそれに応えることや、適切なケアの依頼をし助けを求めることも、ケアすることの中に含みます。
そして、ケアを受け取った時には、受け取ったことを認めて感謝をします。
感謝をするとは、ケアを返すことです。
言葉で「ありがとう」と言うことをケアを返すことに含むこともあれば、もっと具体的な行動がケアを返すことである場合もあります。
感謝の定義は「ケアを返すこと」だと理解してください。
加害者変容は長い道のりです。
関係の危機を迎えても、問題の自覚をすることすら困難で、問題の自覚をしたとしてもそこで知識の獲得をするのはとても難しいことです。
知識の獲得をしたとしても、それを実践することも、実践を続け行動を修正することも簡単ではありません。
そして信念が変わっても、加害的な考え方を持つ人と交わってしまうとまたすぐに自分もその考え方に戻ってしまいます。
戻らないためには、周りの人にもケアの信念を伝えていく必要があります。
自分がそうなったのと同じように、ケアを交換できるような関係を増やしていくのです。
そしてその先に、自分と相手が生きやすい世界を創れる人になっていく時が来ます。
その時には、皆さんが持つ素晴らしい美徳、良い部分が発揮できる関係が増えていきます。
皆さんだけでなく、そこに関わる人も、恐れなく、不安なく、その人の美徳を発揮できるようになっていく。そしてそれをお互いに感謝し合えるようになるのです。
賭けてもいいですが、たとえ加害者だとしても、皆さんには間違いなく人間的な魅力があると思います。
それを覆いつぶしてしまうほどの加害性が、皆さんの素晴らしい部分をどれほど損ない、失わせてしまっているのか。
その加害性が、パートナーやお子さんを自分のそばから引き離してしまっているのです。
職場でも、同僚から嫌われたりすることもあるかもしれません。
その加害性が、加害者を孤独にさせているのです。
その部分を少しずつなくし、手放していった時に残る素晴らしい部分を持ち、他者の素晴らしい美徳とも一緒に生きていくこと。
それが加害者変容のゴールです。加害者変容は決して、下を向いて反省して生きていくということには全くもって留まらず、前向きで自主的で能動的な行為です。
終わりに
「加害者変容理論 言動編」をお読みいただき、本当にありがとうございます。
ここまで読んだことで皆さんは、どんな感情を抱いているのでしょうか。
「変容の先には、自分の良い部分だけが残る時が来るかもしれない」という希望を抱いたかもしれません。
それを抱いてもなお「自分はそんなに辛い加害者変容に取り組めるのだろうか」という不安があるかもしれません。
あるいは「自分がパートナーにしてきたことがどれほどの罪だったのだろうか」という罪悪感に打ちひしがれている方もいらっしゃると思います。
GADHAには、そこを共に乗り越えようとしている仲間がいます。
その希望も、不安も、罪悪感も絶望も、ぜひGADHAで共有してみませんか。
この記事を読んだだけではできない、仲間と痛みを分け合い、それを乗り越える力を繋ぐということを通して、皆さんの変容に取り組むエネルギーが生まれればそれほど嬉しいことはありません。
現在進行形で変容に取り組む仲間と、今これを読む皆さんが、GADHAチームslackや加害当事者会、加害者変容プログラムを通して辛さを分かち合い、変容を喜び合うことができるその時を心よりお待ちしております。
GADHA理論入門編
クレジット
本記事は「変わりたいと願う加害者」の集まりであるGADHAメンバーの協力を得て作成しています。お力添えに深く感謝します。
動画編集:匿名
文字起し:たかさし
執筆 :春野 こかげ (@d_kju2)
責任者 :えいなか (@Ei_Naka_GADHA)