『言動』前編「物理的な暴力がなくとも加害になるのか」

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はじめに

この記述はあくまでも形式的な知識であり、加害者変容には共に学び変わっていく「仲間」との相互協力、プログラム内ホームワークなどの「実践」が重要になります。

 

これらなくして変容に取り組むことは容易ではありませんので、主催者を含むメンバー同士の知識とケアを交換する場であるGADHAチームslack(無料)への参加、個別の質疑応答や実践的な内容を含む加害者変容プログラム(有償)への参加を強く推奨いたします。

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オープンアクセスにするということはGADHAの活動の持続可能性を下げるということです。そこで、マンスリーサポーター(MS)の方々を募り、応援してくださる方が増えるほどオープンアクセスコンテンツを増やすという仕組みを取り入れています。

つまり、このコンテンツはMSの方々の協力により誰でも閲覧可能になっています。心より感謝申し上げます。GADHAを応援したい方、理論を知りたい方、恩送りをしたい方などはぜひマンスリーサポーター制度をご覧ください。

 

以下、加害者変容理論「言動編」を述べていきます。

 

「物理的な暴力がなくとも加害になるのか」「ケアするとはどういったことなのか」という具体的な内容を学んでいきましょう。

加害とは、感覚の否定である

この記事を手に取っている皆さんの中には、愛する人と幸福な関係を築きたいと思っているのに、加害を重ねてしまい不幸な関係になってしまったという方が多いかと思います。

 

「幸福編」にも記載しましたが、「不幸な関係」というのは一方的な解釈の強要による支配と服従の関係です。自分だけの世界の解釈、捉え方をもって「同じように捉えろ、考えろ」と相手に強要する関係、ということです。

 

「幸福な関係」というのは共同解釈を通じて、私たちの世界を構築できる関係ということになります。

 

共同解釈とは、共に幸福に生きていきたいと思う人と、世界を共有しようとすることです。

 

人間にとっての世界は、解釈で成り立っています。まさに解釈が人間存在そのものと言ってもいいでしょう。

 

お互いの人間存在を尊重しあえるように生きるための努力が共同解釈です。前半の段階ではわかりにくい内容ですが、後ほど具体的に解説します。

 

そしてとても大切なことなのですが、関わる全ての人と共同解釈をする必要はなく、それを達成するのは不可能です。

 

自分の中に十分な余力がなければ、パートナーにしかできないかもしれませんし、あるいはお子さんにしかできないこともあります。家族にはできても、仕事の仲間にはそうする余裕がないという状態もあり得ます。

 

もちろん、できるだけ多くの人に、多くの関係において共同解釈ができる方が幸福な人生になっていきますが、自分の限界を認めながらも、できる範囲でできることをやっていく、ということが大切です。

 

その理由は、GADHAにおける加害者変容のゴールが「自他ともに、持続的な形でケアできる関係を構築できる人になる」ことだからです。

幸福な人生を目指す行為とはいえ、自分の限界を超えて共同解釈に取り組むことは持続不可能なのです。

 

これを読んでいる方の中には、パートナーの方と関わることができなくなっている人もいらっしゃると思いますが、その状態の方は自分が共同解釈に取り組むことはできないのではないか?と考えるかと思います。

 

そういった方が現状何もできないのかといえば、全くそうではありません。

今関わっている人、例えば親御さん、お子さん、仕事の同僚、近くに住む人、部下、上司、友人。

様々な場面において、この関わる人と共同解釈をしようとすることはできます。ここからはその具体的な話を進めていきます。

 

ただ、共同解釈をするためには極めて高い技術が必要になりますし、簡単に身につくものではありません。

 

ですのでこの「言動編」では、共同解釈そのものというよりは、その前提となる情動調律に焦点を合わせていきます。

 

自他ともに、その人間存在を尊重する関わりにおいてとても重要になってくるのが情動調律です。

 

「人間存在」という抽象度の高い表現ではわかりにくいと思いますので、詳細に言い換えます。

人間存在とは、言動・思考・感情・信念・感覚の総称です。

 

右に行くほど基盤的な、本質的な、人間の基礎となる部分です。

つまり人間存在の尊重とはその基礎となる感覚の尊重に他ならないと思っていただいて問題ありません。

 

感覚とは何でしょう?

 

傷つき、無力感、悲しみ、絶望、痛み、安心、暖かさ、地に足のついた感じ…このように心や体に感じるものです。

 

全てはここから始まります。人間が人間として世界を理解しそして構築するのは感覚からなのだということです。

ですので感覚の否定というのは存在を根底から否定することであり、その人の世界の否定になります。

 

これが加害の原理的な意味、本質です。感覚を否定することが加害になるのです。

 

具体的な例を挙げてみましょう。

 

「考えすぎではないか?」

「君は傷つきやすいね」

「そんなことで怒るな」

「泣かれると面倒だ」

「くだらない」

「そんなことの何が面白いの?」

「そんなことで喜ぶなんて恥ずかしい」

「普通はそうしないよ」

「ポジティブに考えればいいのでは?」

 

この中には一見、相手のことを気遣っているようにすら見える言葉もあると思います。

 

例えば「ポジティブに考えればいいのでは?」「考えすぎではないか?こう考えてみればいいのでは?」これらの言動も加害になり得ます。

 

なぜならこれらの全てが感覚の否定だからです。感覚は人間存在の根っこであり、それを否定すればその人が壊れるほどの暴力なのです。

 

「相手の感覚を尊重する」とは何か?

その人の世界を否定しないままに、その人について話そうとするには何をすればよいのでしょうか?

そのためには「言葉を選ぶ」ことがとても大切です。

 

自分の言葉が相手の何か大切なものを傷つけてしまうのではないか、という恐れを伴いながら話す故に、ひとつひとつ慎重に「言葉を選ぶ」のです。

 

私も常に「言葉を選んで」この記事を書いています。そうでない時があれば申し訳なく思います。

 

逆に言えば私たちは、言葉を選ばなければとても自然に他者の感覚を否定してしまうのです。

 

皆さんもほぼ全員に経験があるのではないでしょうか。ときには「良かれと思って」このようなことを言ったり、「あなたのためを思って」とこのような言葉をぶつけられたりしてきたのではないでしょうか。

 

「相手の感覚を尊重する」ためには、たとえ相手のことを気遣っていたとしても「言葉を選ぶ」ことがとても大切なのです。

 

 

相手の感覚を尊重するには情動調律が重要になります。

 

情動調律とは共感のことです。

 

共感には「情動的共感」あるいは「同情」「シンパシー」と称されるものと、「認識的共感」あるいは「エンパシー」と呼ばれるものがあり、ひとくちに「共感」といえどもこの二つには全く異なる性質があります。

 

このように共感という言葉は様々な形で使われますが、異なる性質を持つにも関わらず、両者はしばしば混同されることがあります。

 

情動調律が必要な場面ではそこを混同せず、後者の認識的共感をすることを目指します。

 

その定義は後述しますが、先に情動的共感を解説します。

 

前者、情動的共感は相手と同じように自分も感じることです。

 

いわゆる、一般的に共感と言われるものはこれに該当することが多いです。

相手の気持ちが想像できる、理解できる、というものですね。

「その気持ち本当にわかるよ、とても辛いよね」というような言葉で表現されます。

 

ですがこの情動的共感は原理的に実現できないとGADHAでは考えます。これはある種のフィクションです。

 

なぜなら、人の感覚がそれぞれにユニークだからです。

 

人が「共感した」「わかる」と言ったり、「その気持ちを本当に自分のことのように感じる」というのは、自分の感情を思い出しているだけなのです。

 

ひとりひとりの感じ方は異なるのですから、相手の内面を実際に想像、再現し、その通りに感じるということは不可能です。

 

もちろんある程度近い感情を持ち「すごくわかるな」ということ自体はあり得ます。

けれども実際、原理的にそれは不可能であり、誰もそのようなことはできないのです。

 

人の感じ方は皆それぞれにユニークである、とGADHAでは考えます。

人はひとりひとり違う、違うからこそ「認識的共感」を学ぶことができると考えます。

 

情動調律、つまり認識的共感とは何でしょうか?

 

それは、相手の感覚や信念をわかろうとし、それを受容することです。

 

「あなたはこういった価値観や信念を大切にしているから、この現象を認識した時に、こういう感情や思考や言動になるのだね」ということをそのまま受け容れるということです。

 

ここで大切な留意点が2つあります。

 

相手の感覚を受け容れるということは、相手がそのように感じることを全て素晴らしいことだと称賛することではありません。 

そして、「自分もその通りに感じます」と、無批判に自分事化することでもありません

 

とても勘違いされやすい部分ですが、「あなたがそれを大切にし、あなたがそのように認識し、そのように感じることを、私は受け止めます」と言っているだけで、それを「良い」と言うことでも、「自分もそう思う」と言うことでもないのです。

 

あなたという人間が、そうであるということ、それを受容しようとするということです。

 

ですのでそれに失敗することもしばしばあります。

 

私も妻にしてしまったことがありますが、「ケアするとは、相手の大切に思っていることを理解し、尊重し、肯定することなのだ。それを試してみよう」と思い根掘り葉掘り聞きました。

 

「さっきは何故これに傷ついたの?どうしてなのか教えてほしい、これを大切にしているの?」と聞き、それに相手が答えたら「でもそう考えるのであれば、本来ならこうなのではないか?矛盾しているのでは?先ほどとと言っていることが違うのではないか?Aの場面でそうであれば、Bの場面でこのように行動すべきなのでは?それができないということは、それは違うのではないのか?もっと深く教えてほしい」と言ったりするのです。

 

これは相手の気持ちを全く受け止められていません。

 

理解しようとしたとしても、相手の感じ方を結果的に否定し、ジャッジしてしまうのであればそれは加害なのです。

 

「もしかしたらわかってくれるのかもしれない」と思って時間と労力を割いて話し、それによってもう一度傷つけられるのですから、さらに悪質な加害です。

 

振り返れば、私は自分が変容する過程の中ですら、大切な人をたくさん傷つけてきたのだと、その中でどれほど妻を傷つけてきたのかと、今では思います。

 

形式的な知識を頭に入れただけでは、ケアは絶対にできません。それほど難しいことだからです。

 

重要なのは、説明責任を果たすことではなく理解責任を果たそうとすることです。

 

相手の感じ方というのは既に現実に生じており「間違っている」「おかしい」と言われる対象ではないのです。

 

たとえ自分がそれを理解できなかったとしても、そこにそのように考えた、このような相手が存在することを、認めるということしかできないのです。

 

そのような行動をした本人でもうまく説明できないことはたくさんあります。

皆さんも、何故自分がそういった加害をしているのか、説明できないのではないかと思います。

 

自分がやっていることも、自分がうまく説明できない。だから相手も、相手が説明できないこともたくさんあるのです。

 

その時に、それをわかろうとすること。さらに大切なのは、わからなくても尊重しようとすることです。

 

相手がわからなくても、自分もわからなくても、この人はこのような人間である。このように感じる人間なのだということを、尊重しようとすることが愛することなのです。

 

「幸福編」でも述べましたが、赤ちゃんと同じなのです。

赤ちゃんも自分が泣いている時、何故泣いてるのかすらわからずに泣いています。

ただ辛い、悲しい、不快な感じ、嫌な感じ、という感覚です。

 

それを一緒にいる人が「おなかが減っているのかな?」「トイレなのかな?」「眠たいからぐずっているのかな?」と考え、いろいろなケアをしてみます。

 

そしてどれかが合っていた時に赤ちゃんが泣きやみ「よかった」とお互いに安堵するのです。

 

わからないから、わかろうとするのです。

 

そしてそれは自分のニーズが誰かに満たされる、満たそうとする人がいるという安心を相手に与える行為なのです。

 

情動調律というのはまさにこのことです。

情動調律しようとすること自体が、相手に安心を与えることそのものです。そしてそれが幸福ということなのです。

 

人が感覚や信念を否定されたとき、傷付きやニーズが発生します。

その時にそれをわかろうとし、受容しようとすること。情動調律することがケアの核心・本質です。

 

共にケアができる関係、共同情動調律ができるようになると、愛やケアのエネルギーを交換することができるようになります。

 

加害をしてしまっている段階で相手からの変化を求めることは加害を重ねてしまうことになるので、今の状況で加害者がそれを望むのは難しいですが、そういった幸福な関係というのは有り得ないものではないのです。

 

繰り返し申し上げますが、愛やケアのエネルギーというのは、交換することで増える、数少ない貴重な財です。

 

私は知識以外にこういった性質の財を知りません。

交換することで増える。増えるからさらにできるようになる。そうするとお互いの世界の解釈、捉えかたが安定します。

 

存在を肯定しあうことができ、生きることの安心が生まれるのです。

 

つまずきが生じた時というのは、愛するチャンスなのです。

トラブルが起きたり、良かれと思ってしたことで相手が喜ばなかった時、相手と自分の世界が違うということが判明し、相手の世界を尊重する機会を与えられている。

 

そう思えたとき、傷つけ合ってしまうことは本当に減っていきます。

 

けれども何故加害者は、そうして傷つけ合う関係を築いてしまうのでしょうか?

後編はそこからの内容を詳しく解説していきます。

 

終わりに

この「言動編」前編を読んでいただき、本当にありがとうございます。私はそれを心から嬉しく思います。

「自分は殴ったり蹴ったりなどの物理的な暴力はしたことがないのに、何故こんなにもパートナーに拒絶されるのか」

そう思っていた方もいらっしゃると思います。

けれどもこの「言動編」を読んだことで「自分の言動の何が加害なのか」を少しずつ理解できるようになってきたのではないでしょうか。

「何が加害なのか」が理解できると、「何故自分はこのような加害をしてしまうのだろうか」「加害をしないためにはどうすればいいのだろうか」という疑問や不安が湧いてくると思います。

後編以降ではそれを詳しく解説していきますので、ぜひお手にとっていただければ幸いです。

 

GADHA理論入門編

 

クレジット

本記事は「変わりたいと願う加害者」の集まりであるGADHAメンバーの協力を得て作成しています。お力添えに深く感謝します。

動画編集:匿名

文字起し:たかさし

執筆  :春野 こかげ (@d_kju2)

責任者 :えいなか (@Ei_Naka_GADHA)