中島『人を〈嫌う〉ということ』書評

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ケアや気遣いをどのように行うかという本ではなく、それが苦手/嫌いだから、自分もしないし人にも求めない生き方についての本です。敢えていうならば「悪意のない加害者」であるが、変容しようとすることを諦めた人の考えが読めます。

例えば223.「私も地震があったとき、私の腕にしがみつく妻の手をとっさに振り払った経験があり、長いこと恨まれました。」というのは、決して傷つけようとしたり悪意を持って接したわけではないけれど、加害者となってしまったことを示していると思います。

他にも交通事故を起こしてしまった妻への対応が冷たく、そこから息子にも嫌われてしまい、すっかり関係が遮断されてしまったという描写もありました。最初は謝っていたものの、だんだん自分の尊厳を守るために155.「息子が私を嫌っていることも、恐ろしいほどの数の原因を探りあてることができ、実際三ヶ月ホテルで必死に考えたのですが、ある日その追及をすぱっとやめることにしました。どう努力しても、私が彼の父親であるかぎり、彼に嫌われるということがなんとなく体感としてわかった。」といいます。

こういう感覚に陥り、いよいよ「嫌われるというのは理不尽なことであり、仕方がないし自然なことだ」となったといいます。 でも、この息子は彼が「父親だから」憎んでいるのでしょうか。そうは思いません。

役割に対する感情でなく、個人に対する感情なのだと思うし、だからこそ変容すること/変容しようとすることは、その感情への応答として十分にあり得るはずなのですが「なぜこんなに嫌われるのかわからない、もう、嫌われるのは仕方がない」と諦めてしまっています。

そして、224.「私がこの歳になってから心から望むこと、それは夫婦とか親子とか親友とか師弟、さらには知人とか職場の同僚とかの「嫌い」を大切にしてゆきたいということ。そこから逃げずに、嫌うことと嫌われることを重く取りたいということです。」とまで述べます。

 

「嫌い」という感情との向き合い方として、もう「嫌い」だと思うことも思われることも、人生を感じることのうまみなのだと了解することで、変容しない自分を肯定しようとします。

何が問題なのか、どうすれば良いのか、それがわかっても自分にできるのか、もうわからない。こんなに苦しい感覚はなかなかないでしょう。しかもこういうときは言葉で謝るのではなく、現に言動が変わるということでしか示せないものがある。問題を理解するだけではなく、その具体的な再発を防ぐ姿勢と行動とが必要になる。 でも、関わりを拒絶されてしまえば(わかりやすい例としては別居など)それを見せることすら叶わない。これは大変な絶望です。

おそらくはこれまでも何度も同じ原因に基づく問題は起きていたのだろうけれど、その根本的な解決(に必要な変容)は起きず、最後にはその変容を期待することに耐えられなくなってしまって、関わりを絶たれてしまったのでしょう。何度も機会はあった、でもそれを生かすことができなかった。

昔の自分なら心から納得する内容かもしれません。しかし、今はこのような考えを採用しようとはあまり思いません。 それはきっと僕に、自分を変えてでもそばにいたいと思える人がいて、変容によって関係のほころびを繕うこととそのあたたかさを知り、それゆえ自分の変容可能性を信じられているからだと思います。